昭和54年10月2日 朝のご理解
ご神訓 「一、天の下に他人という事は無きものぞ」
神様から御覧になれば確かにそうだろうと思います。ところが人間私共が見るとやはり他人は他人であってなかなか同胞と言うように申しますけれども。言うなら親身な、言わば親類同志と言うようには、なかなかもって思えません。
やはり他人は他人である。天地の親神様を私共が親と仰がしてもらう。みんなが親と仰ぐ、そんなら天地の親神様を親と仰ぐのだから仰いでおる者、皆は言うならばその氏子であり子であるのですから、言うならば兄弟も同様だと。
そこで天地の親神様を親と仰がせて頂く者だけくらいは、ひとつ仲ようしていきたいもんだなあと思うです。
天地の親神様を親と仰がせて頂く者だけぐらいは、その子であり氏子であるとしておかげを頂いていきたい。仲良うしていくと言う事がおかげを受けると言う事ではなくて、そう言う感じ方ね。世の中には他人と言うものは居らん、皆が親類同志だ。ところがなかなか神様の目から御覧になれば、そうであろうけれども、私共はそれを実感として感じる事が出来ない。
そこでなら親神様と言い親と呼ばせて頂いておる私共だけぐらいはね。信者同志だけぐらいはやはりね。はらからとして同胞として、言うならば兄弟として頂きたいと言うふうに思います。ところがなかなか実際はなかなか思えません。そこで私共が思うんですけれども、段々信心の徳を受け、為にはやはり自他共に助かっていく手立て。自分が助かり人も助かると言うように人が助かると言う事に思いをおかせて頂けるようになる。
自分の周辺の人達が関わり合いがなからなきゃ出けませんから、成程袖すり合うも他生の縁と言うのですから関わり合いのある人達の中に難儀な人達がある。その難儀な人達に示現活動さしてもらう。お導きさしてもろうて助かってもらう、助かっていかれる、その喜びが自分に返ってくる。そこから段々と何と申しましょうかね。 それこそ親類以上のお付き合いと言うか、心の言うならば結び合いと言うようなものが出来てくる。そこに実感として神様が言われる他人いうはないと言われる。その実感と言うか情感言うものも湧いてくる。まずそう言う所から段々広げていき、徳を受け力を受けさせてもろうて、中味のある人間氏子の総助かりを願わして頂けるようになって、初めてそこに天の下に他人と言うはないと言うような事になるのぢゃないかと思います。
口で唱えたり願ったりする事は誰でも出来ますけれども実感としてです。世界総氏子身の上安全が願えれるようになる。それがあのう言わば天が下に他人はないと言う事だと思うのですが、果たして私共が実感としてそれが思えておるだろうかとなかなか思えません。けれども確かにお徳を受けてまいりますとそれが段々出来るようになる、内容が出来てくるようになる。
今日私、どう言う事か分かりませんでしたけれども、Z『あの大根を四、五本くくつて、それを百本漬けと言う沢庵を作る時には、あれを一寸乾かしますね。日にかけてやわらかにします。そう言うような状態の大根を頂いたんですけれども』大根と言えば、大きい根と書いてある。だから大きい根と言やあ大きな心と言う事である。 だから私共が大きな心にならせて頂くと言う事、その中に言うならば他人の事も祈れれる。いや他人とは思われない。やはり、その言うなら神の氏子としての天地の親神様から御覧になっての、親子であり、または兄弟であると言うような実感が、実感と言うか。そう言う事が段々と感じられて抱擁力が段々と強くなってくるけども、それだけでは私はいけない。
やはりその頂いた大根が言うならば段々瑞々しいものがなくなっておるわけですから。これがもっと乾かされてそして、それが塩漬けにされると言うか、沢庵漬けにされると言うか。あの桶の中でそして重石をかけられて、そしてそれが沢庵漬けとなるね。 大根そのものは、あれは大体真っ白うしとるから苦労ないと言われるけれども。それが干されて暗い桶の中に入れられて重い重石をかけられて水気がなくなって、言うならば、あの沢庵漬けのようにいつまでも悪くならないと言う事になってまいりますと、沢庵はもう沢庵と言うお徳だとこう思うんです。
だからそう言う一つの過程を通ってです。今こそ難儀、真っ暗い心の状態で過ごしておる人達は、沢庵漬けになるための今修行があっておるね。重い荷物を担いでおるような苦しみをもっておる人は、今こそ重石がかかっておる時と言うような頂き方をさしてもろうて、それが立派な沢庵となった時に沢庵と言うお徳になる。 そう言うお徳を頂いて初めて言うならば親身の事が、事として言うならば世界総氏子身の上安全世界真の平和と言ったような事が本当に願えるのは、そこからではなかろうかと思うです。
三代金光様が世界総氏子身の上安全を願われる。それは余りにも大きい表現ですから具体的に説明して下さいとある新聞記者に問われて、お答えになっておる事が大は小をかねますからとおっしゃったと言う事ですけれども。それはどこまでも金光様のものであるのです。私共がなら天下国家の事を祈らしてもらってもです。大は小をかねるほどしの言うなら実感と言うかおかげが頂けてるであろうか、頂けてない。これはもう金光様でなからなければ、おっしゃる事の出来ない言葉であったと言うふうに思うんですね。
ですから私共が言うならば、あの隣近所の事まで祈らしてもらう、そこに言うならばあの隣近所の事が願える、隣近所の例えば合楽なら合楽中の事が本気で願えれる。合楽の中にある大坪の家ですから、やはり大坪も助かっていくと言う事も言えますけどもね。金光様の場合は世界総氏子と言うふうにおっしゃておられますね。そう言う心の状態が開けてくると言う事はとてもお徳を受けなければ思う事すら出来ないと思うんですね。
私共は例えば天が下に他人はないと、まあそうだと言うふうに分かっただけではなくて、それが実感として。なら天が下の総氏子の事が祈れれる、願えれると言う事のためには、やはりお徳を受けなきゃならない。言わば干されておる時もあろう、暗い桶の中の時もあろう。重い重石をかけられておる時もあろうけれども。
そう言う時に、言わば沢庵としての徳を身につけておる時である。そして徳を受けて見て成程、なら例えて申しますと、南米で人が段々助かるようになって、それで黒人もなければ白人もない。もうそれこそ総人種のまあ何と言うか品評会のようだと言う意味の事を末永先生があちらへ行った時に言うてきとりましたがね。
そう言う例えば、もうその誰でも助かられるようなお取次が出来ると言うところに、末永先生の力があり、やはり徳を受けて言うならばその黒人であろうが白人であろうがね。私共、日本人だけの事ではない。あちらへまいりましてから、黒人やらが参拝して参りましたりしますと、やっぱり日本人の御信者さん方が大変嫌うそうですね。やっぱり人種差別と言うものがあるからぢゃないかとこう思うんですけども。けども末永先生が場合はそんな事は問題ぢゃない。 もう兎に角人が助かる事さえ出来ればの中には黒もあれば白もあるんだと言う頂き方が段々出来て来るようになる。だから助かった。んなら、そう言うところまで信心を進めていない者がです。例えば、海外布教なら海外布教に行ってもその言う事、祈る事は同じであっても助かる事にはつながらない。
私共隣近所の事を祈り願ってもです。やっぱり隣近所が本当に助かって行くと言うて、言う事になって初めて隣近所の事が本気で祈れておると言う事になるのです。祈っておるけれども、その助かりになっていないとするならば、まだまだ祈りと言うものが、天の下に他人という事にはなきものとおっしゃる。まあだ心、口ではそう思って言うておるけれども、心の中には他人は他人としか思っていないと言う事になる。
神様の思いと私共の願いが一つになる。天地の親神様が言うならば総氏子と言うて下さるならば私共も神様のお心となって、言うならばね。いうなら親戚同志と言うような心の状態で人が見れるようになってくる。ですからどうしてもやはり、これは力を頂かなければ神様の心を心とするという事ですから。なら神様が子供と思うておられるなら私共も。それをなら兄弟と言うふうに思えれるようになるところまで信心を進めて行きたいね。
そこには言うなら何と申しましょうかね。軽視したりまたあんな奴はおらんと言うような思い方、考え方は段々なくなって。そういうまあ、屑の子的なものがそこにあるとするなら、かえってその人の事が親身で祈れれるような心の状態が開けてくるだろうと思うんですね。
神の願いを願いとする信心を頂いとる、私達であってみれば天地の親神様が総氏子を自分の子として氏子として見ておられるのですから、私共もそう言う見方が出来るような一つ信心を頂きたい。
それには、いよいよお徳を受けなければ神様の心も本当に頂けないし、本当の交流もない。神様の心になってみて人を見るような心の状態。いよいよ、私が今日頂いてる、その大根のまあ水気がなくなっていくような状態の大根を頂いたんですけれども、そう言う状態から、いうなら沢庵漬けの一つの過程というようなものを通らせて頂いて、見事な沢庵漬けとなりね。それがおかげにつながって行くだけではなくて自分の周辺の事も親身で祈れれる本当の信心が出来てくると言うふうに思います。
どうぞ一つ神の心を心とすると言う事がお道の信心ですから。いわゆる、天の心、地の心を自分の心とすると言うようなのですからね。はあ本当に天の心、地の心と言うような修行しよるけども、まあだまあだ本当な事ぢゃないな。神様の心とは、大変な開きがあるな。神様の心の状態にこちらがなって来たら、あの人でもやはり親身に祈れれるものでなからねば、本当ぢゃないなと言うようなものが自分の周辺にいくらもある。
昨日、山本さんのお届けを聞かして頂いとったら、何か自動車置き場、借りとられる所に自動車をいつも置かれるところが、自動車が荒らされておっておったとこう言うのです。ところが色々なんしとったけれども、御神米を入れてあった、その御神米だけは、また元の通りきちっとお祭りしてあったとこう言うのです。
だから私はそれは金光様の信者ぢゃなかったぢゃろうか思たんです。それは勿論本当に思ったわけでもないけれどもですね。だから金光様の信者の中にでも、なら泥棒もおると言う事なんです。 そげん他の事はこげん。御神米だけはキチンと元のようにしてあったとこう言う。そりゃ金光様の信者ぢゃなかったやろかと。まあ例えて言うならば、そう言うような思い方が本当に出来るようにね。 私はならせて頂く事だと言うふうに思うですね。「どうぞ」